文永寺とは
文永寺(ぶんえいじ)とは、文永元年(1264年)に知久信貞により創建されたといわれ、武家関係では飯田下伊那最古の寺院です。皇室とのつながりも深く、室町時代に数代に渡り勅願寺となった例は全国的にはないようです。
※勅願寺:天皇の発願によって国家鎮護・皇室繁栄を祈願して建立された寺院(祈願寺)
戦国時代に武田信玄が下伊那に乱入した際の兵火により焼失しましたが、江戸時代に天皇の命によって再興しています。
石室・五輪塔は国の重要文化財で、五輪塔としては日本で最初に、石室としては日本で3番目に指定されています。石室に覆われる五輪塔は全国的にも珍しいようです。
また、梵鐘は県宝に指定されており、非公開ではありますが後奈良天皇宸翰女房奉書、後奈良天皇宸翰御懐紙、正親町天皇宸翰女房奉書の3点が国の重要美術品に選定されています。
文永寺
二天門
参道を歩いて進むと、りんごのお供え物がある石仏が並ぶなど長閑な風景が続きます。
また藁で作られる伊那谷の伝統的な正月飾り”おやす”(神様に捧げる食器)もありますね。
二天門、増長天と多聞天が安置されているようです。
道路は二天門の右側をまわりながら境内に繋がっています(車も通行可能です)。
石室・五輪塔
参道途中のT字路(看板がある場所)を左に曲がります。
花崗岩でつくられた石室と五輪塔、鎌倉時代の弘安6年(1283年)のもので国の重要文化財に指定されています。石室には弘安六年癸未十二月二十九日の刻銘があるようです。
全国的にも貴重な石室に覆われる五輪塔
五輪塔とは、主に墓標や供養塔として使われるものだそうです。下から方形(地輪)・円形(水輪)・三角形(火輪)・半月形(風輪)・宝珠形(空輪)の石が組み上げられており、古代インドで宇宙を構成する地水火風空を表しているとされています。
石室が雨風から守る役割も果たしているようで、五輪塔が良い状態で残されていますよね。
鐘楼
参道に戻って石段を上ると、右手に鐘楼があります。
こちらの梵鐘は、文永寺創建当初の弘安2年(1279年)頃に知久氏によって寄進されたものと考えられており、長野県の県宝にも指定される貴重なものですよ。
鎌倉時代の貴重な梵鐘(県宝)
阿弥陀堂
石段の先に構えるのが阿弥陀堂です。
堂内に安置されている本尊の無量寿如来像(阿弥陀如来像)は、足利時代の有名な仏師春日の作と伝えられ、像長245cm・寄木造りの大きな像だそうです。
歴史を感じさせる雰囲気が漂いますよね。
勅使門
勅使門、足利時代につくられた門のようです。
勅使門というのは、勅使(天皇が派遣する使者)の通行に使われる門のことです。
開かずの門ともいわれ、型態彫刻などが県下唯一の貴重なものとのことです。長い月日の流れによる経年劣化も見られますが、その彫刻は見事なものですね。
駐車場
県道1号から住宅街の方向に進み、二天門を越えて文永寺境内の右手前(鐘楼の手前)に若干の駐車スペースがあります。広い場所ではないので、駐車の際はご注意ください。
- 慎重な運転、対向車注意
(文永寺周辺は道幅が狭い)
補足情報・アクセス
住所 長野県飯田市下久堅
アクセス 車 飯田I.C.より20分
飯田山本I.C.より20分
駐車場 あり
料金 なし